和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ
遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
住職 遠藤 喨及(えんどう りょうきゅう)
プロフィール
18歳の頃、音楽演奏中の神秘体験をきっかけに、念仏三昧の行を始める。 1991年、中央仏教学院専修課程(通信)卒業後の三年後、浄土宗にて伝宗伝戒を 受ける。またこの頃より、世界各地でタオ指圧や念仏ワークショップを行ない、その足跡 が、世界八か国の念仏サンガとなる。2007年、和田寺の住職に就任。音楽家としては、五枚のCDをミディレコードより発表。テレビ、ラジオでオンエアーされている。また、「気心道」(だいわ文庫)など、数冊の著書がある。
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第六回
――神や仏を信じる信じない、信仰を持つ持たないも、個人に選択
の自由があると思って、私たちは生きています。
「自分を信じて」という言葉も、この頃では、ほんとうによく耳に
するようになりました。
これは、生活実感の中に、宇宙大霊(如来)との関係がないか、希薄
だからなのではないかと思うのですが、どう思われますか?
住職:一体、宇宙大霊たる如来は、どこに在(ましま)すのか?
それは、私たちの主観にでも、客観世界にでもありません。
言わば、主観と客観という、相対を超えた絶対の世界。
そこが如来の在(ましま)す処です。
それが実感されなくてはなりません。
――ということは、相対を超えなければ、如来の実在は実感できない
ということですね。
住職:現代人は、2つの点で、如来実在の実感から疎外されています。
ーつは、“主客を分離した、自然科学的なものの認識が正しい”
という思い込み。
もうーつは、損得勘定を人生の指針とした生き方です。
というのは、相対の基本は、自他、すなわち自分と他者などの外的世界
との関係です。
そして、自他が分離すればするほど、主観と客観は、対立的なもの
になります。
それで、大霊の存在が、感じにくくなるのです。
――でも、最初は、大霊の存在は実感できなくても、ご縁があれば、
仏教への信仰は与えられるものなのですね?
住職:佛への信仰を持つに至ることができる人は、過去世からの仏縁
の深い人であると、経典で説かれています。
考えてみて下さい。
たとえご縁があっても、心という因がなければ、信仰を持つには至
りませんよね。
因縁和合しないと、ものごとは成立しないのです。
――なるほど、縁あって誰かと出会っても、お互いに好きになると
いう心の因がなければ、結婚までは至らないようなものですね。
ところで、佛への信仰を持つことができる人というのは、すでに、
決められているのでしょうか?
住職:すでに、決められていることが宇宙にあるとしたら、これほ
どつまらないこともないと、個人的には思いますが・・・
さあ、どうでしょうか?
――縁があって念仏することと、信仰を持つことというのは、違う
ことなのですね。
住職:弁栄上人は次のようにおっしゃっています。
「男と女が結婚して子供が生まれるように、人が仏と結ばれて仏子
が生まれる。しかし、無事生まれることもあれば、信仰が流産する
こともある。」、と。
また、「念仏とは、卵の殻の中にいるひな鳥(人)と、親鳥(仏)
が、殻の同じ部分を突っつき合うということだ」。
さらに、「無事に殻(我)が割れたら、誕生する(目覚める)。
すなわち、ひよこ(仏子)が生まれたのが、信仰が生まれたという
ことだ」、と。
――なるほど。
住職:さらに私なりに付け足すと、次のようになります。
「信仰という子供が生まれ、その子が、無事に育つこともあれば、
志半ばにして夭折することもある。
また子供が、次の世代を育てるほど立派な大人に成長することもあ
れば、道を踏み外してしまうこともある。
しかしいずれの場合も、何世代にも亘る生まれ変わりを繰り返しな
がら、仏の世界に向かっていく存在であることに変わりはない。」
――自分が、念仏に出会ったことで、「私は信仰を持っている」と
いえるのか?と考えることがありました。これが、過去生からの因縁
と聞いたり、またそのような例え話を聞くと、何となく納得するとこ
ろがあります。
ただ、そこで「法を広める(弘通する)とは、どういうことなんだ
ろう・・」と、あらたな質問が自分の中に芽生えていますが・・。
住職:伝道しないキリストがいないように、法を広めないお釈迦様
もいないのではないでしょうか?
そもそも教えを広めたからキリストはキリストなんだし、またお釈迦
さまも同様です。
――伝えて下さったから教えがあるし、信仰を持つことも修行すること
もできるということですね。
住職:人が人に伝えることなしに、仏教などの精神文化が成立する
と思うこと自体が、そもそも間違いです。
これは、個が、“他を切り離した個として独立的に存在できる”と
思い込む、現代人の幻想とは、無縁でないように思います。
――なるほど、どのような文化も、伝え手を抜きにしては、存続し
得ないですからね。
伝統工芸だって、弟子を取って創り手を養成しなければ、消滅して
しまいますものね。
住職:神道のような民族宗教であれば、七五三などのように、日本
の風習や文化と密接に関わっているので、日本民族が存続する限り
絶えることはないでしょう。
また、ヒンズー教やユダヤ教もしかりです。
しかし、キリスト教や仏教は、ユダヤ教やヒンズー教の伝統を超えて
生まれたものです。だから、元々が、弘通抜きには、存在し得ない
ものと言えます。
もっとも、現在のように、キリスト教や仏教が、単なる風習と化し、
精神が死んでしまえば、もはや私たちの霊的欲求を満たすものでは
なくなります。そういう意味では、現代は仏教の危機というよりも、
精神文化そのものの危機ともいえます。
先に述べたように、私たち現代人は、自然科学の思い込みを信じ、
また、損得勘定や勝ち負けを人生の指針にしています。
このため、自他の分離が強く、幸福感が希薄なのです。また、大霊の
実感も希薄なのです。
このように、自他一如の生命感覚は、幸福感と結びついているだけ
ではありません。
大霊実在の実感もまた、そこから生まれます。
また、人を修行や信仰に導くのは、相対を超えた大霊が実在すると
いう”予感”に他ならないのです。
――人によって、その予感がはっきりしている人と、そうでない人
とがいるのですね。
芸術にしても、作品を素晴らしいと感じるだけの感性を必要としま
すものね。
それにしても、もし人類が、精神文化が完全に絶えた世界に住むこ
とになったとしたら、まさに魂の砂漠に生きるようなものでしょうね。
住職:現代は、物質文明は栄えているけれど、案外、それに近い状態
と言えるかも知れません。
――「私は何も信じない」と言う人がいますが、もしかしたら、心は
砂漠のような状態かも知れませんね。
住職:今まさに、私たちは、霊的飢餓の時代に生きています。
霊的飢餓状態だからこそ、栄養にならないものや、時には腐ったもの
にまで手を出してしまっているのです。
あるいは、化学調味料になれて、本物の味がわからなくなっていると
いうこともあるのです。
―続く―
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