スーザン ジーン エディ(澄山慈院恵女I)
“おかみそり式”((仏門への帰依を誓う儀式)のメールを受取った時、日本
語で書かれていたので、友人に翻訳してもらわなければならなかった。
友人から翻訳を電話で告げられた。「これは髪を切る儀式。仏教徒になる時に
受ける式ね」
友人の軽い親しみのある声ではあったものの、そう聞いて、気がうばわれ、一
瞬すべてが止まってしまった。
もちろん、私は僧ではないけれど、仏の道に従っていく誓いをたてていた。
友人は続けて、式の意味についての詳細は書かれていないことを告げた。
しかし、私にとっては、ブッダの門弟であることを示す行動なのだ。内からの
深い感覚で、ブッダの従者になる誓いを立てるときなんだと分かった。
こうすべき、とか、しなければならないとかではなく、深いところ、深い責任
からくるもので、私の行動も、深い心、仏性から沸き起こる行動で、自身のエ
ゴなどに影響されないものだ。
どんな行動であれ、この深い心からおこるものは、100%であり、大きい活
動とか、よい活動などと比べるものでもない。
それは、笑顔であり、奉仕であり、創造であるが、計算といったことではない。
理想的には、私のとる行動はただ自然におこるものだ。
しかし、それには修行という実践に専念することが必要だ。
そうすることが求められ、それが、私の責任なのだ。
このことを考えているとき、聖書の中の話が頭に浮かんだ。草むらに自分の才
能を隠すなということについてだ。それは私には、「自分の本当の姿、仏性を
隠さず、立ち上がり行動しなさい」という意味にとれた。
お剃刀は、本当に髪を剃ってしまうのではなく象徴的にするだけ、と聞いたと
き、はじめは、それでは十分ではないように思った。
「まっすぐに歩きなさい。そして、髪を剃ることで、ブッダの弟子であること
を人々に伝えなさい」
そして、私は、気づいた。人は、どう行動するかで、人に知られるようになる。
外見がどうだとか、何を言ったかではなく。
以前に、仏前の式で誓いを立てたが、その誓いが行動につながらなければ、そ
れを意味無いものにしてしまう。
入行式では、一人ひとりだったが、お剃刀では、みんな一緒に受けた。
私は、他のメンバーとつながりを感じ、阿弥陀如来様に、全員で一緒に招待さ
れたように感じた。
ほの暗い光だったが、明るい光を皆で浴びているようだった。
私の髪が、象徴的に阿弥陀様の前で切られたとき、しっかりとした純粋さと、
優しい愛を感じて、とても幸せな気分だった。
式の間、念仏は強く優しかった。
メンバーのみんなが、修行に完全に専念しているのを感じた。
謙虚に、式に加われたことを光栄に感じた。、、、南無阿弥陀仏、合掌。
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